ある性犯罪受刑者から母への手紙:「内観療法の本を読んで」

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お母さんへ
面会と差し入れ、それに手紙ありがとう。本は金曜日に、手紙は月曜日に頂きました。面会でも言ったように、本来ならば発信日(今の工場は火曜日)が祝日の場合はその週の発信日は無しになるのですが、今回は特別に水曜日に受け付けるという事を月曜日の帰りに知らされました。

差し入れてもらった「内観法」の本ですが、現在半分近くまで読んでいます。読み始めて思ったのは、「これは飯田先生の生きがい論に似ている」という事です。「生きがい論」では、全ての出来事・関わる人は自分が成長する為の手助けとなるものであり、良い事も悪い事も(むしろ悪い事の方が)全て尊い経験=学びであり、無駄・無益は何も無い。従って、仮にどんなにみじめな、ダメな人生だと自分では思ってしまったとしても、そんな事はなく「そういう思いを知る」貴重な学びであるという事だと私は解釈しました。そうすれば、全ての出来事に感謝こそしても、わざわざ嫌な思いをして恨んだりする必要は全くないのであり、人生を楽しく過ごせる。これが人生の究極の目標だと思うのです。もちろん、壮大な希望で実現はそう簡単なことではありません。頭では解っていても気持ちの上で納得ができないなんて事もたくさんあるでしょう。それでも、そういう事を頭に置いておくのが重要だと思います。
そして、この「内観法」はそれを一歩進めて、自分の罪を反省することで、こんな自分を受け入れてくれる相手の愛を知り感謝するという事なのかなと思いつつ読んでいます。
読みながら「してもらったこと」、「してあげたこと」、「迷惑をかけたこと」などを考えていますが、考えるまでもなく「してあげたこと」など何もないと思いました。もちろん「してあげたこと」はあります。しかし、それは表面的なことでしかありません。心からしてあげたと自信を持って言える事は何ひとつありませんでした。
それとは逆に「してもらったこと」、「迷惑をかけたこと」は多すぎるくらいです。もちろん、これも表面的なことを抜きにしても、私は相当にしてもらっています。それは、今までも分かっていたのに、それに対して感謝の気持ちはあっても素直にはなれませんでした。なぜかというと、親に対して反抗心、照れくささ、甘えなどがあったからです。
恥ずかしげもなく私の持論を書けば、「親は、あくまでも自分達が希望して(=子が望んだ訳ではなく)一方的に自分達の責任で子を産んだのだから、たとえそれが原因で苦労をしても面倒を見るのは当たり前の事であり、その事に見返りを求めるのは見当違いである」というものです。
しかし、例え親はこういう考えでいるべきだとしても、子はそれに感謝しなくて良いという事はあり得ないということを私は知っていながら知らないフリをして来ました。私の中では親にしてもらった事(主に良い事)よりもされた事(主に嫌な事)の方が多く、大きく残っており、私がこういう人生を送っているのは半分以上は「親にこんな育て方をされたからだ」と長い間思って生きて来ました。こういう自分に育ったのは親の育て方が間違っていたからで、それを強要された私には他の生き方(逃げ道)がなかったと思っていたのです。
もちろん、今では考え方は全く違います。事実は変わらないし、私が考えたのも間違いでは間違いではなかったかも知れないけれど、実は道(考え方)は他にもたくさんあった筈です。でも、それを当時の環境で自分一人の力で気づくのは難しかったでしょう。ほとんど無理とも言えます。それを受け入れるだけの心の準備ができていなかったというのもあるでしょう。仮に20代の私が飯田先生の本を読んでもうけ入れられなかったとおもいます。それ程に未熟だったというか自分勝手でした。
それでは今はどうなのかと言われれば、自分の考えの足りなさを認めて受け入れ、新しい考え方を納得して受け入れる事は出来るようになって来たと思います。しかし、すぐに100%実践できる訳はなく、油断すると前の癖が出て来てしまう事もあります。
今はお母さんや大石先生の指摘を受けたり教育の場で皆で話し合ったりする事が出来ます。今はそれでも良いとして、将来出所して、もしもお母さんがいなくなったらどうするのかという不安もありました。もちろんカウンセリングや自助グループを利用するという手段等もあるでしょうが、そういうものが直ぐに利用できない状況だったらどうしようなどと考えていくうちに、それならいっそ自分からそういうじょうきょうになった人の「駆け込み寺」みたいなものが出来ないかと考えるようになりました。別に恰好つけて人を助けたいというのではなく、自分も助けて欲しいというのもあります。そういう意味では自助グループと一緒でしょう。「警察相談センター」というものがあって、事件にはまだなっていないが、事件になりそうな(被害者となりそうな)現状の相談を受けているそうですが、それと同じように加害者になってしまいそうな人が相談する場所があっても良い、あるべきだと思うのです。そういうのは元犯罪者だからこそ理解できる部分というのがあると思います。申し訳ないけど、これだけは絶対に犯罪をする気が無い、した事がない、あるいは刑務所に入った事のない人には犯罪者(又は犯罪しそうな人)には十分に寄り添えないと思うのです。そういう人は得てして、上から目線で諭そうとする人が多いようです。もちろん、「それが悪い」とか「間違っている」などと言うつもりではありません。ですが、同じ目線で共感して一緒に道を探すという事も必要なのではないかと思うのです。
そういう事を考えていたところに「内観法」を読んで僭越ながら「今の自分と同じような事をかんがえているみたい」とか「目指すところは同じだろうか」という感じがしました。当然私は足元にも及ばないでしょうが、目指す道がはっきりしてきた気がします。
別に善人になりたい訳ではありません。全てを入れ替えて新しい自分に生まれ変わる必要もないとさえ思っています。「悪い所をなくす」というのはそれが出来るのが理想ですが、人である以上は難しいと思います。ただ、積極的に悪い所を出すのではなく、悪い所を自覚して、効果的に無理なく抑える事が出来るようになりたいと思っています。それには似たような境遇の人と助け合うのが一番だと思うのです。それがグループという形ではなく、いつでも誰でも自由に利用できたら良いと思うのです。
そういうものについて、いずれ社会に出てから何か実現できる方法があるか等を探ってみたいと思います。それがひいては自分の再犯防止にもつながるかと思うのです。

「今日は「建国記念の日」です。建国は初代天皇神武天皇が即位した紀元前660年ということなので、今年は26××年目ということになるそうです。今日のお菓子は「とんがりコーン」でした。言うまでもなく美味しかったです。

相変わらず居室は寒いままです。寒さのせいか分かりませんが、雪が降った土曜の朝には50歳代の受刑者が亡くなったと新聞に載っていました。こういうのを機に、無理に寒さを我慢しなくても済むようになれば良いのですが、まず無理でしょうね。

平成○年○月○日  ○○