元大石CLリカバリー職員・故江口賢次氏への生前インタビュー記事
この記事は、特定非営利活動法人SUN機関誌 「ライジングSUN」9月号 より、同法人のご承諾を頂いてて転載するものです。故江口賢次氏は平成24年3月6日病気にて永眠されましたが、当院にて長年にわたり、リカバリー職員 (アルコール依存症回復者職員)として勤務すると同時に、NPO法人SUNにて運営委員長として活躍された方です。ここに改めて故人のご冥福をお祈りしつつ、NPO法人SUN様の御厚意の下に、生前のインタビュー記事をご紹介します。
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<以下:「ライジングSUN」・9月号 より転載>
江口さんのマイストーリー
江口賢次さんには、SUN設立当初から関わっていただき、運営委員長も務められた方です。今年の3月6日に惜しくも他界されました。個人の徳を偲び、SUN設立20周年記念誌所収の「江口さんのマイストーリー」を抜粋して掲載します。
第1回 生い立ち 石神井学園の頃
聞き手: 今日は平成23年8月23日・火曜日です。 SUN20周年記念誌の発行について、江口賢次さんのご協力をお願いしたいと思います。お聞きするのは江口さんのマイストーリーで、回復の道のりをお話しいただければと思っております。最初に、江口さんの生い立ちを聞かせていただけますか。
江口: 生い立ちっていうか、昭和26年、たしか3月か4月のことだと思うけど、4歳のときに上野公園で保護されて、台東相談所という所に行ったらしい。それは俺の記憶にはないけれど。その当時、子供の浮浪者が、戦後まもなくだから相当な人数がいた。
それで、台東相談所から振り分けられて、東京の練馬の石神井学園という養護施設に行った。中学校を卒業するまで11年間、児童が300人ぐらいいて、その中で、好むと好まぬに関わらず団体生活が身についた。
学園には、親兄弟がいる人といない人がいて、たまに親元に帰る児童もいた。それが子供の頃、とてもうらやましくてね、お父さん、お母さんの所に帰れるって。指をくわえてというんじゃないけど、寮母さんに食ってかかって 「何で俺はお父さん、お母さんが迎えに来ないんだ」ってそんなことを言っていた記憶があるよね。
小学校5年生の時、学園の300人の中から俺ともう2人、合わせて3人で親を探すテレビ番組に出た。司会者が、「日真名氏飛び出す」っていう番組の主人公の、末井とか平井だとかいう、俺が知っている顔の人だった記憶がある。
学園生活の中では、暴力沙汰も相当あった。個人的な寂しさ、妄想だとか空想だとかは持っていたけども、それを打ち消してくれたのは、結局、ああいうのを仲間というのかな。同じ児童の中で、結構エンジョイしていた。先輩に殴られたりしたけども、同じ境遇は俺一人じゃないっていうのを、同じ学年の彼らに教えてもらったというか、共感を呼ぶというのかね。「俺一人じゃないんだ」という気持ちが、その頃からあった。
当然、ああいう施設だから、酒もタバコもあるわけない。でも、中学を卒業するまでは、隠れてタバコを吸ったなあ。それぐらいのものかな。クラクラっときて倒れて、畑で寝ていた覚えがある。学校は学園の中じゃなくて、外の、町の学校に通学していたんだけど、町の連中は 「学園ちゃん」 と、あまり一緒に遊んだりはしなかったね。
聞き手:学園ちゃん?
江口:「学園ちゃん」って町の人に言われていた。施設の子供は「学園ちゃん」ってね。いわゆる普通の人の友達というのはできなかった。結局、遊ぶにしても、悪さするにしても、学園の中でやっていたね。
小学校一年の時かな、先輩が、給食費を集めたやつを 「お前、かっぱらって来い」 って俺に言うわけよ。先生が集めた給食費が引き出しの中にあって、それを取って先輩に持って行ったことがある。それが初めての盗みといえば盗みか。で、それをそっくり先輩に渡した。その先輩、俺もよく記憶にないけれど、それから強制的にどこかに連れて行かれちゃったんじゃない。盗みがばれて。上の大きいお兄ちゃんたちが、下に 「これやれ、あれやれ」 って言ったら絶対服従だからね。寮母さんがいるけど、寮母さんに服従じゃなくて、上のお兄ちゃんたちに服従する。断ったら、そのときは暴力沙汰だから。
でも、俺が中学の一番上の年長になった時、俺は殴らなかったな、あんまり。下の子は皆 「江口賢ちゃん、江口賢ちゃん」 って慕ってたね。何でなんだろうなと思うけど、先輩に殴られると、子供の頃泣いていたけど、「俺ならこんなことで殴んねえな」 と思って。そんな些細なことなんだろうけどもね。
ただ、ソフトボールの大会が、各寮対抗で毎年8月30日にあるんだけどね。(学園の子供が)300人で。1棟20人の寮が15寮あった。敷地が広いから点々とあった。8月30日に各寮対抗のソフトボール大会というのがあるわけ。そこから野球に目覚めたのか、俺が一番上になって、先頭切って、ソフトボールの時だけは、エラーなんかすると、すぐ殴った(笑)。だから下級生は 「そのときだけが怖い」 って言っていた。普段は、そういう些細なことで殴ったりはしなかった。
学園の中で慰問があって、双葉女学校とか、クリスマスの時にプレゼントを持って来た。米軍キャンプの朝霧駐屯地から、兵隊さんがアメリカの物資を大量に持って来た。ジャンバーだとか、着るものとか。 あと、天皇陛下が来たり、歌のダイアナなんかも来たり、「ララミー牧場」のスリムとジェスが来たり、そういう慰問が楽しみだったね。米軍キャンプの子供たちが、ゆで玉子に絵を描いて持って来てくれるんだけど、玉子なんて昔食えないでしょ。あれが嬉しくてなあ。
あとは、石神井学園の中にグラウンドがあって、大泉東映撮影所が近くにあったから、グラウンドを撮影に貸すわけよ。力道山とか、堺駿二だとかの若手の俳優が来て撮影していた。その見返りとして、1年に2回、講堂でチャンバラ映画を見たことがあるね。「鞍馬天狗」だとか。チャンバラを見ると、皆、棒切れでチャンバラごっこなんかしたな。
振り返れば、親がなくとも子は育つって。そりゃあ、個人個人で違うだろうけど。それぞれの思いがあったにせよ、社会で生きているんだろうな、今は。
中学校2年と3年で寮替えがあって、男女別々になった。それまでは男女20人で一緒だったから、これではまずいというので、国の方から「男女別々に生活しなさい」って。その時の寮替えで、「蒲田お母さん」という人にお世話になったんだよね。
聞き手:蒲田お母さん?
江口:駅の蒲田。あのお母さんが、まだ生きているって、友達経由でわかって、、今年の4月に、友達と二人で会いに行った。蒲田お母さんが98歳で、妹が95歳で、初めて老老介護を身近に感じた。お母さんは座ったきりで、コタツで話したけど、俺のことよくわからないみたい。でも、当時の学園のことはは話していたね。
聞き手:「蒲田お母さん」は寮母さん?
江口:寮母さん。今となっては、奇跡だろうな。ちゃんと会わせてくれたんだから。それはさておいて、でも学園は良かった。大親友が一人できたからね。今でもその男とつきあっているが、それが漫画家。あいつは、まぁ成功したよね。中学を卒業した時に、そいつと約束した。「俺は漫画家になる。江口は何になるんだ」 俺は印刷屋に就職が決っていたか ら 「俺は印刷屋の工場長になる」 って。そんな約束をして、学園を去ったんだけどね。
つづく
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