自分という人間 デイ大石:土井功
- 2008.08.06
- 体験談-アルコール依存症 依存症体験談 表彰状
自分は中学を卒業するまでは、生まれ育った北海道岩内町という所に住んでいました。実家は漁師をしていましたので家の手伝いをしながら学校に通っていました。父はあまり喋らず、魚を獲る事と酒を飲む事しかしない人間でした。
自分は中学を卒業したら水産高校へ行こうと思っていましたが、父が 「漁師はもういらん」と言うので札幌に行きました。札幌では見る物、聞く物が初めての物ばかりで生活環境が180度変わり、あらゆる物に新鮮さを感じ、考え方や遊び方も変わり、毎日が楽しい日々でした。
高校在学中に就職は決まっていましたが、都会への憧れから東京へ出ました。親には大学を受験すると言って、2年間色々な学校へ行ったりアルバイトをしたり遊んだりとフラフラしていました。その後アルバイト(運送会社)が仕事となり、若者の衣服などを都内、名古屋、大阪、関東一円などに営業の人と一緒に配送して回りました。
その頃、北海道の先輩の顔で酒屋にツケが効くようになり毎日日本酒を飲んでいました。また、札幌時代に覚えた競馬がそのまま好きになり続いていました。(今現在も好きで競馬のG-1レースはよく観ていますが、馬券は購入していません。) その頃から酒は毎日飲んではいましたが楽しい酒でした。東京での生活も楽しい毎日でしたが、父が病気をしたと聞いて北海道に戻ることにしました。
実家に戻りましたが、仕事の方は就職難でした。従兄弟が室蘭の某自動車会社にいましたので試験を受けて入社しました。営業に配属されましたが、一生懸命だったのか調子が良かったのか、実績が上がりドンドン出世して行きました。酒の方も相変わらずで結婚してからも毎日飲んでいました。管理職になってからは遊びと仕事に忙しい毎日でした。家庭はほったらかしでギャンブルと酒が優先でしたが、それでも仕事の実績は良く上司から叱られた事はありませんでした。でもその一方で、遊び過ぎやストレスの蓄積などから家庭が上手く行かなくなり離婚となるのですが、離婚届けに判を押す時には妻に暴言を吐き酒を飲んでいました。
離婚して再度東京に出ましたが、当時はバブルの全盛期で仕事は直ぐに見つかり、色々な仕事をしましたが、杭打ちという特殊な仕事に収まり、また酒とギャンブルの日々が続きました。金には元来困らず楽天的でした。この頃が一番酒を飲んだように思います。仕事を真面目にやるので会社からの評価も良く、また責任を負うようになりました。でも杭打ちという荒い仕事がら喧嘩(意見の食い違い)もよくありました。そんな事情から仕事を辞めることになりました。この頃は飲み方が異常で飲んで記憶が無くなるのもたびたびでした。
その後、仕事をしたり遊んだりで堕落した生活を送り酒も毎日飲んでいました。仕事が不安定でよく酒を飲みましたが、それが原因で警察の厄介になり刑務所にも3度入る事になりました。3度とも酒が絡んでの不始末でした。平成18年12月に帯広刑務所を出所しましたが、刑務所での生活は良い社会勉強となり、私にとっては大変良かったと思っております。
その後、金がなくなり渋谷でホームレスをしながら仕事をし現在に至っております。3月に一度入院(脳梗塞)しましたが現在はまずまずです。酒を飲まなくなり、考え方が変わり、人間も変わり、現在楽しい毎日を送っております。
車を販売していた頃のイメージから言うと、現在の自分はは中古車です。新車というのは工場で作られ、お客に売られ、ナンバープレートが付けられる迄の車であり、ナンバーが付けられたその瞬間から中古車扱いとなります。ナンバーつまり依存症の診断が下され、新しい生活を始めた私は中古車です。人生は正に紆余曲折です。これからが本当の人生になると思います。
これから新たな仕事に就き、自立を目指して行きますが、毎日毎日が仕事と人生の勉強の日々です。頑張りますので宜しくお願い致します。
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