断酒6ヶ月の表彰を受けての体験談:「アルコール依存症を認めて」デイ大石通院 竹さん
- 2013.04.20
- 体験談-アルコール依存症 依存症体験談 表彰状
アルコール依存症と認めて デイ大石 竹さん
私は、平成19年にアルコール依存症と告知され久里浜アルコールセンター(現久里浜医療センター)に3ヶ月間入院しました。当初はアルコール依存症という事の意味が全く分かっておらず、アルコール勉強会に出席しても他人事のように聞いていました。それから3ヶ月後に退院し、すぐに復職しました。それがいけなかったのでしょうか、3ヶ月程は断酒が出来ていたのですが、やはり職場でのストレス等々であっけなくスリップ(再飲酒)し、それから連続飲酒へと・・・気がつけば又久里浜病院へ。こんどは短期ということで、アルコール勉強会・認知行動療法主体のプログラムでした。自分の行動や思考で、どうアルコールを意識しないかという訓練の毎日でした。この時改めて認知という事の重大さに気づきましたー依存症を認めてからが回復の第一歩だと。そして、1ヶ月半で退院、その後大石クリニックに繋がりましたが、相変わらず飲酒欲求は強いまま。この時には「認知」という言葉はすっかり消えていて、クリニックに通いながら飲酒をしていました。当時は大石でもアルコールチェッカーは無く、抗酒剤もうまくすり抜けることが出来ました。そんな折に家族からひどく非難を受け、別居を余儀なくされ、実家の母の下に入ることとなりました。母親はえらく心配していましたが、依存症の私は知らぬ顔で飲み続けていました。
そんなある日、クリニックに通う皆さんの事を考えてみました。「皆さん、諸事情がありながら通院しており、そして断酒生活をしている」と、そう思ったら、家族の事が今さらの如く愛しく思えてならなくなり、「こりゃ、断酒しかない !! 」と一念発起してクリニックに通えるようになり、自助会へも参加する事が出来るようになりました。いわゆる3本柱の行動です。ここから母親ともより一層仲良くなり、断酒生活が始まったのです。母親との暮らしはなかなか楽しかったです。子供の頃母親も勤めていたので母子の触れ合いは少なかったのですが、ここに来ていっぺんに子供に戻った様に甘えてしまった自分がいました。でもこんな期間は短いもので、アッと言う間に3年間が過ぎてしまいました。しかし私はこの3年間断酒が出来ていたのです。これも母親のお蔭と感謝しています。でも、その母親が他界してしまいました。そりゃもう悲しかったです。何も手につかない程でした。葬儀の時にも喪主である私はお酒に手をつけずにいられました。と言うか、飲酒欲求が全く湧いて来なかった事が幸いしたのか、3年断酒という事が足かせになったのか。分かりませんが。
それから月日が経ち、断酒は続いていたのですが、ちょっとした魔が差しまして、ある日、「3年間断酒したのだからチョットぐらい飲めるのではないか」という思いが頭をよぎり、一杯の酒から連続飲酒へと嵌まり込んでしまいました。もう家にこもりきりで昼も夜もなく飲み続け、短期間で酷いアル中状態となり、そして3度目の久里浜病院へと繋がりました。今度は東1病棟で、年輩の方々が多く、老人ホームさながらでした。今度もアルコール勉強会の他に認知行動療法を学びました。6年前の認知行動療法とは違い、とにかく宿題が多く、自分で考えて、考えてというパターンが多く、他の皆さんの意見も参考になり非常に勉強になりました。
改めて思った事は、「やはり認知が重大な鍵なんだなぁ」という事です。3回も入院させてもらい、職場や家族に多大な迷惑をかけ放しではありますが、現在大石クリニックに通いながら、先ず、オレは酒を飲めないんだという事を再認識して、3本柱を中心に「今日1日断酒」を掲げて、日々穏やかに暮らして行きたいと思います。とにかく、認知が大事です !!
※写真
上=大石クリニック・デイ大石入り口
下=大石クリニックで使用している認知行動療法ワークブック
(A4版 全12セッション/P83)
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