「アル中から新しい出発をして3年」 大石CL外来 中村滋男

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 この記事は、横浜断酒新生会機関誌「かたらい」・No42より、同会および筆者の同意を得て転載するものです。
 38年間に渡る飲酒・アル中人生、一見絶望的にさえ思えた依存症人生の末に、専門治療と断酒会に繋がり、見事に社会復帰を果た した依存症からの回復の手記です。=当ブログ・3月20日付「私のアルコール人生」参照   
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 岩浜に打ち当たる波の一撃一撃が、やがて、いつの日にか岩をも砕くように、今日一日、今日一日の断酒がやがては依存症回復への大道を切り拓きます。                                           絵=ミシン刺繍:鈴木智     
(大石だより・編集部)
《「かたらい」・No42より》
 「アル中から新しいスタートをして3年」:西支部/中村滋男
 朝、目が覚めると缶チューハイをまず1本。それから1日が始まり、愛犬の散歩をしながら、朝食、昼食の時、昼間散歩をしながら飲   み、そして夜の晩酌と一日中酒を飲みながらの生活でした。最初の内は仕事が休みの日だけの事でしたが、それでも休み明けは必ず ひどい二日酔いで仕事に行く事もできず欠勤。その度に会社に電話をしては「風邪をひいた」とか「熱が出た」、「腹が痛い」とか「腰が  痛い」、「妻が急病」・・・等々色々と嘘の理由をつけては欠勤。その電話を切ると直ぐ「これで一日休めるぞ」と気分を良くしてまた酒を 飲み始める有様でした。
  そんな生活を続けている内に休みの口実の種も無くなり、やがて仕事にも行けなくなり退職してしまいました。そして以前より激しく一 日中朝から晩まで酒に入り浸った生活となり、アルコールで 脳も内臓も侵されて、やがて歩く事も出来なくなりました。手が震えて字も 書けなくなり、身体の痙攣も始まり、大小便の失禁やBlack out ( 記憶が何日も跳ぶ) も発症しました。そんな廃人状態に落ち込んでも 毎日震えながら酒を飲み続ける私でした。
  そんな生き方しか出来なかった私から、今までの全てを忘れて病院で治療を受けようという私になったのは今から3年前の夏・7月  のことでした。西区役所の照会で、横浜の阪東橋にある大石クリニックのアルコール治療の名医である大石院長の門を叩き、治療が  始まりました。
 当時の私には大石クリニックの階段を昇れず、同行した妻と大石クリニックのスタッフの手を借りてやっとの思いで階段を昇った事が今懐かしく思い出されます。以後、毎日抗酒剤を飲みながら寝汗や不眠、強い飲酒欲求、手の震え等々の色々な離脱症状と闘いました。毎朝起きると直ぐに鉛筆を持って新聞紙に震える手で自分のb名前、住所を書く練習をしましたが、字が書けなくなった事をこれほど寂しく思った事はありませんでした。食事の時に箸を持っても、コップを持っても手が震えていました。特に人前で食事をする時に恥ずかしさを覚え、又そんな自分を心寂しく思いました。とりわけ、スプーンを使う時は口までもって行く時に手が震えて上手く行かずに非常に恥ずかしく思いました。そんな自分を他人に気づかれないように特に気をつかっていた事を思い出します。
 身体が良くなって来た頃、社会復帰を志し仕事探しに頑張りました。でも中々就職する事が出来ず、やっと決まった仕事も直ぐに解雇されました。1,2年の間は3~6ヶ月の周期で転職を繰り返しました。長年の飲酒で侵された脳が元に戻るのは簡単ではないようです。仕事をしていても素早い行動、動作、速い動きに私の脳は順応出来ず、周囲の人からは「仕事が遅い」とか「のろい」とか色々と言われました。それもアルコールの後遺症だと思います。でも他人から何を言われてもガマンして一生懸命ガンバッテ来ました。現在の仕事は冷凍食品の宅配の仕事です。この仕事はもう1年以上続いています。アルコールに溺れた「アル中人生」、そんな生き方しか出来なかった私が全てを忘れてというのは無理かも知れませんが、それにしても新しい生き方=「アルコールの無い人生」をスタートさせて、来月(7月)で満3年が経ちます。
アルコールは日本酒、ビール、ウイスキー、チュウーハイ、カクテル等々と、その形状や味を色々と変えて私達の日常生活に入り込んでいます。しかし、その全体を通しての正体はアルコールという物質で、人間の脳の中枢に作用して人間を変えてしまう薬物だったのです。。そして、その一番の問題は依存性を有するという事です。
 そんなアルコールを止めて( 断酒して) 3年が経とうとしている現在、お蔭様で私は何とか普通の生活が出来るようになりました。その平凡な生活、何の変哲も無い普通の生活に小さな悦びを感じる事が出来るようになりました。私は人生最大の目的は「生きる」という事だと思います。お金が無くても、出世や成功などしなくても兎に角「生きている」事が一番大事であり、「生きている」事に価値を感じる事が一番大切な事だと思います。生きている事が私の社会へのメッセージです。
長い間多量のお酒を飲み続けていると、人によって個人差はあると思いますが、依存性を有するアルコールという薬物によって脳を侵されてアルコール依存症という病気が発病し、内臓や神経を侵され、やがてアルコール依存症の末期を経て死に至る。それがアル中(アルコール依存症)という病気です。そして私自身がそうであった様に、病気に気づかずに飲酒を続けている人々が世間には非常に多いと思います。そういうアルコール依存症者の平均寿命は52~53歳だと言われています。例え話で、「海の神(ネプチュン)より酒の神(バッカス)の方がより多くの人間を溺死させている」と言われている様に、お酒が原因で死んで逝く人々は非常に多く、海や川で水が原因で水死された方々の数を遥かに上回っていると思います。
 アルコール依存症は完治しない病気と言われていますが、飲まなければ発病せず回復できる病気とも言われています。この病気にかかったら、断酒を続ける事が一番の治療であり、そしてその治療を続ける為には断酒仲間の力が非常に大切だと思います。その力が、この3年間お酒の無い新しい人生を必死で生きて来た私をお酒の魔力から護り断酒を続けさせてくれた「強い力」となりました。断酒会の仲間達や大石クリニックでのミーテイングの仲間達が私をここまで引っ張って来てくれたのだと思います。いわば、渡り鳥がその群れから離れては生きて行けないようなもの、そんな気がします。
  断酒を始めてまる2年が過ぎた頃から少しずつ、苦しかった断酒から悦びの断酒へと変わって来ました。来月ー7月で「アル中・廃人」の人生から断酒を志す人生に第一歩を踏み出して、まる3年が経ちます。そして私の人生も、まる57年を越えます。そういう今、苦しかった離脱症状に耐えて断酒を続けて来てやっと人間として普通の生活が出来る様になりました。
◎3年前、当時のアル中末期の私の心の片隅に小さな良心のカケラを残しておいてくれた神様に、
◎そして、酒を断って生きる選択をした私を治療して下さった大石クリニックの院長先生 、及び治療スタッフの皆さんに、
◎ならびに、アルコールの魔力から私を護り、断酒を続けさせてくれた横浜断酒新生   会、大石クリニックでのミーテイングの仲間の皆  さんに、
◎離婚もせずに今日まで私を護ってついて来てくれた妻、息子に、
深い感謝の意を表すると共に、これからも毎日「一日断酒」の志を忘れずに、日々努力を重ねて行きたいと思います。
 そして、私が最近常に思っている事。それは、「麦」の様に生きたいとの思いです。麦は「寒い冬に芽を出し、何度も踏まれ、寒い風雪に耐え。真っ直ぐに伸び、やがて沢山の実をつけ穂を垂れる」と言われています。私はこれからもアルコールの怖さを忘れる事なく、麦の様に強く人生を生きて行きたいと思います。
 「生きている」事が、私を支えてくれた人々、および社会へのメッセージです。